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論理不要論

会社で話していると「論理、論理」と口うるさく言われる。
そして考えさせられる。
論理はそんなに正しいのだろうか。
論理はいつも正義なのだろうか。

最近はひろゆきがYouTubeで様々な人を論破している。それを見て論理が絶対的なものだと感じる人がいるのだろうか。論理が正しい道を照らしてくれると考えるのだろうか。
しかし、ひろゆきの論破を見る度に、論理の弱さを感じざるを得ない

ある番組で「朝ごはんにパンとごはん、どちらがいいか」という議論をしていた。ひろゆきとゲストが議論をする構成である。パンとごはん、どちらを支持するかを決めるのはゲストで、残った方にひろゆきがついて議論を始める。5分ほどの議論でひろゆきはゲストを論破する。
ひろゆきはゲストを論破した。しかし、ひろゆきはどちらの選択肢を支持するかは決めていない。ひろゆきに選択の余地はなく、ゲストが選んだ残り物を支持することになる。しかし、ひろゆきは必ずゲストを論破する。
これがどういうことか理解できるだろうか。

ひろゆきはどちらの選択肢を支持させられたとしてもゲストを論破することができるのである。ひろゆきは論理でゲストをねじ伏せている一方で、どちらかの選択肢が正解だということを主張しているわけではない。なぜなら、逆の選択肢だったとしてもひろゆきは論理でゲストをねじ伏せることができるのだから。
論理を使えば一見ある選択肢が正しいかのように演出することができる。しかし、それは正しいかのように演出をしているだけで、絶対的に正しいことを証明しているわけではない。
『Factfuless』にあるようにこの世の中に絶対的な正解なんてない。全てのものはグレーである。グレーであるものを論理を使ってまるで白色かのように演出することに何の意味があるのだろうか。

大学受験を通して論理を学んできた。国語も英語も、数学も理科も、論理的に考えれば正解を導くことができる。しかし、論理で勝負できるのは大学受験までだ。世界のものごとに答えなんてない。どれだけ論理を積み重ねたって、絶対的答えになんてたどり着くことはできない。830は何度も論理の限界を感じてきた。
入口と出口を決めてしまえば、それを論理で繋ぐことは一定の論理力があれば誰でもできる。出口が正しいか、正しくないかなんて関係ない。
論理は正しい出口を見せてくれるものなんかではなくて、ただ入口と出口を繋いでくれるものでしかない。本当の意味で論理について考えた人なら、誰でもわかる事だろう。しかし、多くの人は論理が正しい出口を提示してくれるものだと誤解している。

論理は、論理力がない人をそれっぽく洗脳するためには有効かもしれないが、正しい出口を教えてくれるわけではない。賢い人に論理を固めてダラダラ説明したって、「だからどうした?」と言われて終わりである。そこまで論理を重ねるほど真剣に頑張ってきたというやる気を見せるためには有効かもしれないが、論理自体には何の意味もない。
論理で入口と出口を繋ぐことよりも大切なもの、それは出口をどこに定めるかだ。そしてそれは自分の感性で決めていくしかない。グレーの選択肢ばかりの世界の中で、どこを目指すべきなのか。それを教えてくれるのは、論理ではなく自分自身の感性だ。
自分はどうありたいのか。社会はどうあるべきなのか。そういった感性だけが目指すべき出口を照らしてくれる。感性を磨き続けろ。それだけが自分を支えてくれる。